Q:「~(し)たり…」と一度言ったら、そのあとも必ず「~(し)たり」としなければならない、と聞いたことがあります。「たり」は単独では使えないのでしょうか。
A:「~たり~たりする」という言い方ができる場合には、後ろの「~たりする」を省くと、据わりのよくない言い方になる場合があります。ただし例外も多いので、いろいろな言い方を吟味しながら、その場に一番ふさわしい表現を見つけるようにしましょう。
问:听说只要说过一次「~(し)たり…」那么后面就必须再接一个「~(し)たり」才行。「たり」不能单独使用吗?
答:在说「~たり~たりする」的时候如果将后面的「~たりする」省略的话,就有可能会变成不恰当的说法。但因为也有很多的例外,所以还是让我们来一边斟酌各种说法,一边找出最符合语境的表达方式吧。
解说:
まず、「たり」が単独で表れることはよくあります。例えばこのような言い方です。
首先,「たり」单独使用的时候还是很多的。比如说下面这个例子。
ご飯を食べたりする時間もない。
就连吃饭之类的时间都没有。
ここで、「~たりする」となっているところに注目しておいてください。この形なら、単独で使っても問題はないのです。
这里请注意如果是用「~たりする」这种形式的话,单独使用也是可以的。
また、この文には、頭のほうに「~たり」を並べて「例示」を増やすことができます。
还可以在这句话的前面增加一些用「~たり」来表示的示例。
トイレに行ったり、ご飯を食べたりする時間もない。
就连去厕所呀,或是去吃饭之类的时间都没有。
テレビを見たり、トイレに行ったり、ご飯を食べたりする時間もない。
就连看电视、去厕所,还有吃饭之类的时间都没有。
ところが、最後の「~たりする」を省くと、少々ぎこちない言い方になります。
但是,如果将最后的「~たりする」省略的话,就会稍显生硬。
トイレに行ったり、ご飯を食べる時間もない。
就连去厕所,吃饭的时间都没有。
このようなことから、「~たり」は単独では使えない(ただし「~たりする」なら単独でもOK)というように言われることがあるのです。
根据以上的例子可以看出,「~たり」是不能单独使用的。(如果是「~たりする」的就可以单独使用)
では、次のような表現は「間違い」でしょうか。
那么,接下来的这些表现是错误的吗?
「愛にはぐれたり 淋しさが涙に負けそうな時は 思い出して みんな ひとりきりじゃないと」(菊池桃子「Say Yes!」1986年)
“遗失所爱 寂寞到要哭出来时 请回想起来 每个人都不是孤独的”
「去年の暮、僕の旅行中、Tという人の使いというのが来て、(中略)十五分もねばって、部屋の中をのぞいたり、うろつき廻って、女中を困らせた人物があったそうだ。」(坂口安吾「西荻随筆」1949年)
“去年年末,我在旅行中,遇到了一个自称是T的使者的人,(中略)似乎有一个在家里赖着15分钟不走,一边向房中窥探,还一边走来走去,让女仆人很困扰的人。”
「心なしか、お母さんは少しやせて、お肌もここしばらくの真っ青だったり荒れている感じよりも若返っている気がした。」(よしもとばなな「もしもし下北沢」2009年)
“也许是心理作用吧,母亲好像瘦了一些,皮肤比起之前的苍白粗糙要显得年轻了。”
1番目の例は歌謡曲の歌詞、2番目と3番目は作家が書いたものです。いずれも「…淋しさが涙に負けそうだったりする時は」「…うろつき廻ったりして」「…荒れたりしている」とはなっていません。ですが、1番目の歌のメロディーをご存知の方ならわかるかと思いますが(ぼくと同世代ですね)、これでは曲になりません。また文学作品でも、表現上の効果などから「~たりする」が使われていないものがたくさんあるのです。
第一个例子是歌词,第二、三个是作家的作品。无论哪个都没有变成「…淋しさが涙に負けそうだったりする時は」「…うろつき廻ったりして」「…荒れたりしている」这样的形式。可是,如果是熟悉第一首歌的旋律的人应该就能懂(我们是同一个时代的人呢)如果换成了那样的词就没法唱成歌了。后面的文学作品也是同样,为了表现的效果不使用「~たりする」这种形式的情况也有很多。
「日本語では『~たり~たりする』という形になる傾向がある」というように覚えたりしておく程度が、無難なのではないでしょうか。
只要记住“日语中『~たり~たりする』是比较常用的形式”就没有什么可担心的事了。
文章摘自:NHK放送文化研究所 文章翻译:知诸学院 四季
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